※ネタバレありでございますのでご用心。
先週金曜、『すずめの戸締まり』を今一度観てまいりました。
それで私はこう思ったわけですよ、これは「物語についての物語」だと。
どうもこの映画は、「物語を語る」ということについて描いた映画なのかなあと思えたんですよねえ。
それで、まずこれを語るにあたって外せないのが、ダイジンの存在でございます。
映画を観たところ、ダイジンは誰かから気に掛けられることによってこそ真の力を発揮できる存在なのかなあと思えました。
しかし最初は誰の記憶からも忘れ去られたために力を失ってガリガリゲッソリの姿になっておりまして、そして偶然か運命か鈴芽に出会い、遂に自分のことを気に掛けてくれる存在を見つけたために、もこもこふわふわの元気なダイジンに戻ったというわけでございます。
さて、本作の鍵となる要素に「閉じ師」と「要石」という存在がございますけれども、中盤で描かれた草太の自宅にあった古文書の内容から考えるに、どうもこれらは昔はもっと英雄的な扱いを受けていたっぽいんですよねえ。
古文書の中には、ミミズを封じる要石と閉じ師、そしてその周りには両の手を合わせ彼らを拝む民衆の様子が描かれておりました。
しかしながら、草太の語ったところでは、今や閉じ師はあまり堂々と表沙汰にしてやるような仕事ではないということでした。
古文書の内容の一部が黒く塗り潰されているというような描写がありましたけれども、多分そういったことを始めとした諸々のことがあって、彼らの活躍は人々の間から消えてゆき、そして今となってはもう本人たちだけの知る秘密となったのかもしれません。
そして、鈴芽が自分と草太のしていることについて「大事なことをしている」と言ったときに草太がハッとするような描写がありましたが、あれは自分の仕事が初めて他人から認められ評価されたことに対する驚きなのではないでしょうかねえ。
自分では大事な仕事だと思っているけれども、誰からもそれを評価されたことはない、そんなことを思わせるような描写でした。
語られることがなくなって久しく、それ故に誰からも評価されることのない影の存在、それが閉じ師や要石なのかもしれません。
というわけでして、そういった様子を分かりやすく見た目で表現していたのがダイジンだと思います。
ところで、本作『すずめの戸締まり』観ていて、昔読んだ小説の一節をふと思い出したのでございまして、それがこちらでございます。
人間は消滅しない。ぼくらは、それを語る者のなかに流れ続ける川のようなものだ。人という存在はすべて、物理的肉体であると同時に語り継がれる物語でもある。
スネークの、メリルの、ここに集う兵士ひとりひとりの物語を誰かが語り続けるかぎり、ここにいる誰ひとりとして消えてしまうことはない。
引用:『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』
この一節にある「語り継がれる物語」とは逆に、「語り継がれなくなった物語」こそがダイジンの象徴するものだと思います。
「物語を誰かが語り続ける限り、消えてしまうことはない」とありましたけれども、それは逆に誰も語らなくなったら消えてしまうということでもあります。
ですので、物語序盤で誰の記憶からも忘れ去られたダイジンは冷たくなって生気のない姿で現れたのでしょう。
しかしダイジンが再び要石の姿に戻ったラストシーンでは、「鈴芽の子にはなれなかった」と言いつつも、初登場時のようにげっそりしてはいませんでした。
これは多分、ダイジンは鈴芽の子にはなれなかったものの、鈴芽の記憶に残ることができ、語り継いでくれる者に出会えたということなのかもしれません。
あれはダイジンにとって決してハッピーエンドではありませんでしたが、それでもわずかばかりの希望が残されたラストだったような気がします。
ところで、終盤から登場したサダイジンの方はと言えば、ダイジンとは違い終始元気そうでしたが、これは多分、草太の祖父の羊朗が気に掛けていたからだと私は思いますよ。
窓辺に現れたときにも「お久しゅうございます」と言っておりましたし、何か深い関係がありそうでございます。
誰の記憶からも消えてしまったダイジンとは違い、サダイジンは羊朗の中に確かに生きていたわけでございますよ。
ともあれ、そんな感じでダイジンは物語を語り継ぐことの意味について訴える存在だったのだろうと、私は思った次第でございます。
姿形は失われても、その存在は物語として生き続ける、そんなことを示唆するような奥行きのあるストーリーでございました。
さて、ここでもうひとつ、先ほど引用した小説からこの言葉も引用しましょう。
「そうだね、人間だけじゃない。船も、建物も、物にも――それぞれに物語がある。ぼくらは結局、ひとりひとりがお話なんだ」
引用:『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』
パンフレットには、この映画を「場所を悼む」物語にしたかったという新海監督の言葉が書かれていました。
物語というのは、何もダイジンや人間のような生き物にだけ宿るわけではありません。
場所などの生き物以外にも宿るのでございます。
愛媛と神戸のシーンでは、出会った人たちが後ろ戸が開いた廃墟にまつわる思い出を語るシーンがありましたが、そういった物語があらゆる場所に宿っているのだと思います、たとえ今は忘れ去られた土地であっても。
そして、後ろ戸の鍵を閉じるときにその場所に生きた人々の想いを聞くと草太が言っておりましたし、そういったことを考えるに、場所を悼むというのはたとえ今は打ち捨てられた廃墟であっても、ときには当時のことを偲び、思い出すことなのかもしれません。
後ろ戸を閉じてその場所のことはきれいさっぱり忘れてしまう、というのではなく、むしろ逆にその場所の物語を絶やさないこと、そしてその上で過去に囚われるのではなく未来へと踏み出してゆくということ、それこそが場所を悼むということなのかなあと私は思いました。
ところで話はまた変わりますけれども、この『すずめの戸締まり』という作品は、作中の表現からも明らかな通り、東日本大震災を描いた作品でございます。
もうあれから10年以上も経ちました。
当時のことをよく知らない人もそれなりに多くなってきているでしょうし、そもそも被災地から遠く離れていてその衝撃を身をもって知っていない、あるいは記憶が薄れてきているという人もいるでしょう。
かくいう私も、当時住んでいた場所が被災地からはるか遠く離れており揺れひとつすら感じませんでしたし、また被災した方々と直接関わるような機会もまったくありませんでしたから、ニュースで震災を知った当時は衝撃的だったものの、今となってはそのときの記憶はあまり鮮明ではありません。
そういった世情を踏まえて、この作品はあの震災の記憶を、そこに生きた人々や土地の物語を、後世に語り続けることについて語りかけているような気がしました。
あるいは東日本大震災に限らず、その他諸々の不幸についても同じことが言えるのかもしれません。
亡くなってしまった人々や失われた土地に宿る物語をいつまでも記憶に留め、忘れずにいること、それがこの映画が伝えたかったことなのかもしれませんねえ。
というわけでして、『すずめの戸締まり』という物語を通して、物語を語るということについていろいろと考えさせられたウサオジでございました。
この『すずめの戸締まり』という作品は、誰かやあるいは何かの物語を語り継ぐことの大切さを伝えると同時に、そういった物語が語られなくなることへの警告でもあったのかもしれないなあとも思いましたよ。
いやはや、なんとも味わい深い作品でございました。
さて、それでは最後に、本作の挿入歌である『すずめ』と『カナタハルカ』からそれぞれ一節を引用して、この記事の戸締まりをするといたしましょう。
大切な思い出や人との関わり、そういった幾多の物語が混ざり合って人は生きている、そんな思いが伝わる素晴らしい歌詞だと思いました。
思い出せない 大切な記憶
言葉にならない ここにある想い
もしかしたら もしかしたら
それだけでこの心はできてる
引用:『すずめ』
僕にはない 僕にはないものでできてる
君がこの僕を形作ってる
引用:『カナタハルカ』
おしまい。