『すずめの戸締まり』「行ってきます」でございます

※ネタバレありでございます。

 

本日は『すずめの戸締まり』を観てまいりましたよ。

と言いますのも、なんと今日からDolby Cinemaでの上映が始まりましたので、居ても立ってもいられなくなって早速行ってきたというわけですよ。

Dolby Cinemaは最寄りの映画館にはありませんのでちょいと遠出になってしまいましたけれども、やはり観てきて良かった。

通常上映以上に真に迫るような迫力がありました。

ともあれ、もう何度目の鑑賞かは忘れましたけれども、作品の物語自体は今日も相変わらず素晴らしかったですよ。

奥行きのある味わい深い物語で、何度観ても考えさせられるところがあって面白いのでございます。

さて今日は、終盤で鈴芽が放った「行ってきます」というせりふについて語ろうと思います。

さあ、大いに語ろうではありませんか!

「行ってきます」、これがもうなんとも考えれば考えるほどに味わい深い言葉でして、この物語を締めくくるにはこれ以上ないほどふさわしい言葉のような気がしております。

と言いますのも、この「行ってきます」というのは、一体どこから旅立つことに対する「行ってきます」なのか、あるいはどこへ向かうことに対する「行ってきます」なのか、そしてこれは誰に対して言ったのか、そのことを考えると、とても言葉では言い表せないほどの感情になるのでございますよ。

とりあえずまずは要点だけ申し上げますと、きっとこれは昨日から足を踏み出し、そして明日へと向かうための「行ってきます」であったと、そう私は思っております。

これは明日への決意と言えるのかもしれませんし、あるいは過去の清算という言葉でも言い表せるのかもしれませんが、つまりはそういった意味なのであろうと解釈いたしました。

またこの言葉は、自分自身の後ろ戸、つまりそれが象徴する鈴芽自身の過去、あるいはもっと具体的には常世で出会った4歳の鈴芽、過去の自分に対して放った言葉であったかもしれません。

過去の自分に別れを告げてまだ見ぬ未来へと足を踏み出す、そういった想いも感じられまねえ。

さてここで振り返っておきますと、この「行ってきます」は、東北の鈴芽の故郷にあった、かつて4歳だった鈴芽が震災後に期せずしてくぐってしまった後ろ戸を閉じるときに、現在の鈴芽が言った言葉でございます。

そしてその直前、後ろ戸の中の常世の世界では、鈴芽はかつての東日本大震災で母を失った直後の4歳の鈴芽に「未来なんて怖くない!」と励まし、そして過去の鈴芽から誰何されたときには自身のことを「私は鈴芽の明日」と答えておりました。

つまりここでは、4歳の鈴芽は鈴芽の昨日であり、また17歳の鈴芽は鈴芽の明日であったと言えるでしょう。

またこのシーンは、現在の鈴芽から激励を受けた4歳の鈴芽が救われるというよりはむしろ、現在の鈴芽自身が過去の鈴芽に対して語ることによって自分自身の言葉に救われているという印象を与えるようなシーンでございました。

先ほどの「未来なんて怖くない!」という言葉も、過去の自分に言い聞かせるとともに今の自分にも言い聞かせていたのだろうと思えます。

そういうこともあって、「行ってきます」と言って最後の後ろ戸を閉じる寸前に鈴芽が「大事なものは全部ずっと前にもらっていたんだ」と言っていたのかもしれません。

この「大事なもの」というのは、言葉で言い表すのはちょいと難しいのですけれども、強いて言うならば、要するに「未来への希望」のようなものだったのではないでしょうか。

でありますからして、この後ろ戸を閉じるシーン以前の鈴芽が母を失った震災の痛ましい記憶、あるいは育ての親である環との軋轢など、どこか過去に引きずられているような様子であったことを踏まえると、最後のこの「行ってきます」という言葉には、過去から未来へと踏み出していく、言い換えるならば昨日から明日へと歩みを進めていく、そんな意味があったのではないのかなあと思ったりしました。

あれはそういった意味での「行ってきます」であったのだと、私はそう思います。

「行ってきます」、なんと奥深い言葉であるのでしょうかねえ。

さてところで、お次はラストシーンで鈴芽が草太に呼びかけた「おかえり」についてもちょいと触れておきましょう。

このシーンでは、旅の最初に草太と出会ったあの海の見える坂道で鈴芽は草太と再び相まみえるわけですけれども、そのときに鈴芽の放ったこの「おかえり」と言いますのは、かつてあの東日本大震災の日、鈴芽が母に言うことの叶わなかった言葉でもあります。

しかしそんな「おかえり」を、遂にこの旅の果てに言うことができた。

これはきっと、草太との旅を終えた鈴芽が、未来へと向けて足を踏み出したという意味で象徴的な場面なんだろうなと、私はそう思いましたよ。

この「おかえり」も忘れ難いせりふでございました。

ともあれ、今回の話題についてはまだまだ語れそうな気配がありますけれども、とりあえず重要なところは語れたような気がするので、今日のところはこの辺で勘弁してやりましょう。

というわけでして、たった二言のせりふではあったものの、そこにはいくつもの文章を費やしても語りきれないほどの意味があったと感じ、感慨深い気分になっているウサオジでございます。

さてところで、そういえば今日の鑑賞でまたひとつ特典をいただきましたよ。

それは「環さんのものがたり」と銘打たれた掌編小説ですけれども、一体どんな物語が詰まっているのか、今からもう楽しみでございます。

ちょうど小説版の方も読み終えたことですし、それでは今度はこちらを読むといたしましょう。

それでは、行ってまいります。

おしまい。