『かがみの孤城』「普通」かそうじゃないかなんて問題じゃありません

実は今日は仕事始めだったのですけれども、そんな些細なことはもはやどうでも良くなってきたので、今日も『かがみの孤城』について語ります。

気づけば2023年に入ってからずっと『かがみの孤城』の話ばっかりしているような気がしますが、そんなことはもはや関係ありません。

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というわけでして、今日も語ります。

先日『かがみの孤城』の小説を読んでいたら、ある考えが頭を貫きました。

「普通」なんてものはどこにもない、と。

「自分は、みんなと同じになれない――、いつ、どうしてそうなったかわかんないけど、失敗した子みたいに思えてたから。だから、みんなが普通の子にそうするみたいに友達になってくれて、すごく嬉しかった」

引用:『かがみの孤城 下』

終盤、城に招待された7人のメンバーの一人であるフウカはこう言います。

フウカは、ピアノに生活のほとんどを捧げた結果、学校に馴染めなくなっておりました。

そしてこのせりふの後には、このように続きます。

その声に、こころは息を呑む。この場のほとんどみんながそうなったのがわかった。

"普通になれない"はずっとこころが思ってきたことだった。

学校に通ってる他のみんなみたいにうまくできなくて、同じになれないことに気づいて、だから絶望していたし、苦しかった。ここでみんなが友達になってくれて、どれだけ嬉しかったか。

引用:『かがみの孤城 下』

その後は「普通」に関するいくつかのやり取りがあった後、最後にリオンがこう締めくくるわけでございます。

「普通かそうじゃないかなんて、考えることがそもそもおかしい。そんなの、オレはどうだっていいし、単純にフウカがいい奴だから仲良くなれたんだよ。嫌な奴だったら絶対仲良くならなかった。それはみんなそうだろ?」

引用:『かがみの孤城 下』

これですよ、これ!

「普通」かどうかなんて、問題じゃありません。

これは昨日書いた「個人をカテゴリーで括らない」というお話と繋がってくるかもしれませんが、要するに人間に「普通」も「普通じゃない」も無いのでございます。

人間にはその人数分だけの個性があり、そしてそのそれぞれが異なっており、ひとつとして同じものはない。

だから誰かと誰かが出会ったとき、うまくいくこともあれば、いかないこともある。

そもそも、「普通」なんてものは考えてみればただの幻想なのかもしれません。

「普通」という言葉は便利なもので、知らず知らずのうちに私もよく「『普通』はそうはしない」みたいに使ってしまっているような気がします。

そして、それはまた同時に私自身がしょっちゅう言われる言葉でもあります。

思えば、「普通」という安直な言葉に逃げることでもっと突き詰めて考えるべきことから目をそらし、個性を蔑ろにしてしてしまっているのかもしれませんねえ。

『かがみの孤城』のおかげで、重要なことに気づけたような気がします。

「普通になんかなれないし、なる必要もない」、読んでいてそんなことを思いました。

人と人が仲良くなるのに大事なのは、「普通」なんかじゃありません。

さてところで、今読んでいる他の小説に「普通」に関する面白い一節を偶然にも見つけしたので、最後にこれを引用しておしまいとしましょう。

あいにく普通とおれが仲たがいをしてからずいぶん経つ。

引用:『イラク・コネクション』

おしまい。