さて、今日も昨日に引き続き『かがみの孤城』について書き散らかすといたしましょう。
今日は、目の前の人としっかり向き合うことについてお話しますよ。
これは映画ではほとんど描かれていませんでしたが、小説の方ではいろいろなところで描写されていて、強く印象に残りました。
小説には、個人をカテゴリーに分類して扱うことに対する抵抗が描かれておりまして、それは例えばこういった表現でございます。
「なんか、そうやって欠席多かったりすると、大人とかは何かこの学年とかクラスに問題があるってすぐ分析しようとするんだろうけど。そんなの、休みたい個人が二人いただけっていう個別の問題だと思うんだよな。オレ嫌い、そういう世代とか社会背景とかで不登校とかいじめ分析する傾向」
引用:『かがみの孤城 下』
これは別に不登校やいじめのような問題に限らずとも、何かにつけてやりがちなことだなあと思いました。
何か際立ったことがあると、それを分析してカテゴリーのラベルを付けて分類しようとする、そういったことがこの社会に満ち溢れています。
例えば、最近の「Z世代」のような呼び方に代表されるような、「○○世代」といった表現をよく聞きますが、そんな感じで生まれた年代によって人々の傾向を分析するようなやり方とか。
もちろん、そういった分析が全部良くないとは言いませんし、そういった傾向を理解することが役に立つ面もあるのでしょう。
しかしながら、そういったやり方に対して本作は、「個人をカテゴリーで分類して理解することは、本当にその人を理解していると言えるのか」、そんな警告を発しているような気がします。
ある個人はあるカテゴリーに属する大勢のうちの一人という見方もできるかもしれませんが、しかし何と言ってもやはり個人は個人でありますから、一人の個人として理解し尊重する必要があるということではないでしょうか。
他にも、作中にはこのような描写もありました。
こころがされたのは、ケンカでもないかわりに、いじめでもない。私がされたことはケンカでもいじめでもない。名前がつけられない"何か"だった。大人や他人にいじめだなんて分析や指摘をされた瞬間に悔しくて泣いてしまうような――そういう何かだ。
引用:『かがみの孤城 下』
その出来事は一般的には「ケンカ」や「いじめ」と呼ばれるものなのかもしれませんけれども、しかしその当事者のこころにとっては説明のできない"何か"。
これは、同じ出来事に対しても人によってその感じ方は違う、ということが分かる一節でございました。
相手のことを理解するにはこちらの言葉で一方的に決めつけて説明してしまうのではなく、その人が何を感じているのかその人の言葉で聴いて理解するのが大切なのではないかと思います。
というわけでして、「目の前の人としっかり向き合うってこういうことか!」とはっと気づかされるようなお話でございました。
おしまい。