『生きる-LIVING』ウサオジという男と、ゾンビ

『生きる-LIVING』、観てきました。

ikiru-living-movie.jp

「生きる」とはどういうことか、考えさせられるような映画でございましたよ。

役所の市民課課長ウィリアムズは感情を感じさせない無機質な表情と態度の男で、来る日も来る日も右から左へと書類仕事を機械的にこなすだけの無味乾燥な日々を過ごしておりました。

その生気を感じさせない様子は、部下に「ゾンビ」とあだ名を付けられるほど。

しかしながらある日、ウィリアムズは医者に余命半年と宣告されるわけでして、それをきっかけに「生きる」とは何かを考え始めます。

作中で「一度も生きることなく人生を終えたくない」というようなことを言っておりましたが、それこそがこの男が死を前にして思ったことでございました。

「子供の頃、将来は紳士になりたかった」、ウィリアムズはそう言いましたが、しかし大人になった今は実際にピンストライプのスーツに帽子といった上品な身なりと礼儀を備えた紳士になることはできたけれども、果たしてそれは本当に自分がなりたかった姿なのか。

そしてあるとき思い立って仕事をほっぽり出して遠くへ行き、そこで偶然出会った劇作家の男と連れ立って夜の街へと繰り出して遊んでみたけれども、気分は晴れない。

また、同居する息子夫婦との仲もあまりよろしくは無く、余命のことを言い出せないまま日々は過ぎていく。

しかしながら、あるときウィリアムズは転職していった部下にばったり出くわし、彼女のエネルギーに満ち溢れた姿に見出すわけですよ、「生きる」とは何かを。

彼にとって「生きる」とは、今まで何かと理由を付けては他部署にたらい回しにし続けてきた公園造りの仕事に真摯に取り組むことでした。

町の一角に小さな公園ができたからと言ってそれが歴史に残るわけでもなく、それどころかもしかしたら何年か後にはなくなっているかもしれない、しかしそんな些細な仕事であっても必死に取り組むことがウィリアムズの「生きる」だったわけでございます。

と、こんな感じの内容でございました。

ウィリアムズの生き様を通して「生きる」とは何かを問いかけるような内容でありました。

要するに「生きる」ということは、もしかするとそれは目の前のことに全力で一生懸命に取り組むことなのかもしれませんねえ。

さてところで、ここらでひとつ、この映画でとりわけインパクトのあったシーンについて触れておこうと思います。

それは序盤の役所の様子を描いたシーンなのですけれども、ウィリアムズという男が務めるこの役所、観ていて「もうええかげんにせえよ」と言いたくなるくらい仕事をしない。

ある部署は「それはあっちの部署に行け」と言い、あっちの部署は「それはこっちの部署が担当だ」と言い、こっちの部署は「そっちの部署へどうぞ」ってな具合でして、気づけばまた最初の部署に戻ってくる始末で、とにかく仕事をしない。

たらい回しに次ぐたらい回し。

観ていて、私もいっそのことあれくらいてきとーに仕事できたらなあと思ったり思わなかったりしました。

面倒な仕事がやってきたら「課長、お願いします!」で片づけて、課長は課長でその仕事をうやむやにしておしまいにする。

先日より職場でちょいとした面倒事に巻き込まれてとんでもない目に遭っている私といたしましては、羨ましい限りでございます。

こんなの、私の職場でやろうもんならすぐさま管理職のお偉方がすっ飛んできてスイッチオンですからねえ。

ギャンギャンに怒られるのは間違いなし。

というわけでして、なんちゅうやる気のない職場だ、と思いつつ観ておりました。

これぞまさにお役所仕事ってやつでしたねえ。

ともあれ、我らがウィリアムズ課長の生き様を通して、物事に必死で打ち込むことが大事なんだなあと思えるような作品でございました。

頑張りましょう。

おしまい。