※今日も今日とてネタバレいたします。
一昨日『かがみの孤城』を観てきて、心の底からぞっとするようなシーンがひとつありました。
それは、かがみの孤城に集められた7人の中にウレシノという惚れっぽい少年を他の6人がみんなして面白おかしくからかっていたら、実はウレシノ本人はそれを心底嫌がっていたというシーンでございます。
これはつまり、世界の中に自分の居場所を見つけられなかった少年少女が、知らず知らずのうちに今度は誰かの居場所を奪う側に回ってしまっていたという、なんとも皮肉で痛ましい場面でした。
あのシーンには本当にぞっとさせられましたよ。
と言いますのも、実は私も、まさしくここで描かれていたような経験がありまして、友達みんなで遊んでいる際に、その中のちょいとキャラが強くて面白い友達をからかいすぎて泣かせてしまったことがあるのでございます。
そしてその一方で、今度は私自身がそれと同じような目に遭ったこともありますし、そのときは本当に嫌で嫌で仕方なかった記憶もあります。
ともあれ、あのシーンにはもう本当に、人間の、そして世界の難しいところを実によく描いているなあと感心する他ありません。
一方では誰かに自分の居場所を奪われ、もう一方ではそんな自分が誰かの居場所を奪っている。
そして、そもそもそんな悲劇が起きてしまった原因はといえば、自分が感じていることは敏感に分かるのですけれども、しかしそれが自分以外の誰かのこととなるとまったくの無神経になってしまうということだろうと思います。
これは元を辿れば、きっと人は他人の気持ちを決して本当の意味で感じて理解することができないというところに行きつきます。
いくら言葉を尽くして説明しても、それを他人が完全に理解することはできませんし、逆もまた然りで、他人からいくら説明を受けたとしてもその感情を完全に理解することはできません。
故に、人は自分がされて嫌だったことも、ふと気づけばそれを忘れて他人に行使してしまっているのではないでしょうか。
他人のことは決して完全に理解できない、しかしながら、だからといって他人のことを理解することを放棄して良いということにはならないのでございまして、むしろ逆に、だからこそ理解しようとする姿勢が大切なのだと思います。
分からないからこそ、想像するしかないのでございます。
決して理解できない他人のことをしかしそれでも理解しようと歩み寄り、そしてその人が何を感じ何を思っているのか想像する、そうすることによって、この世界にささやかな居場所を増やしていけるのではないかと感じました。
また、誰かの居場所を奪うという行為がすべて想像力の欠如が原因だとは思いませんけれども、しかし想像力を失わないよう日々気を付けることによって、誰かが居場所を奪われるという惨事を少しは防ぐことができるかもしれません。
というわけでして、『かがみの孤城』は想像力がこの世界に自分や誰かの居場所を作り出しているのかもしれない、そんなことに気づかせてくれる素敵な作品でございました。
おしまい。